10年以上前に書いた文章を読んで、自分で受けてケラケラ笑いながらも、娘はあれからずいぶん賢くなった気がする。
ずーっと昔から、いつになったらわたしにもぱーっと心が明るくなるような日々が訪れるんだろう?と思っていたけれど、去年の新型コロナウイルス流行による緊急事態宣言の時に少しだけパラダイスな気分を味わった。
なんせ人と接しないことを推奨される。
会食はしないほうがいい。
おしゃべりも控える。
同窓会もないので、出席するかどうか悩まなくていいし
旅行も外食いままでほとんど出来なかったけど、それはみんなも自粛となり
自分が苦痛なものがほとんどストップしているので結局のところ「自分だけみんなのように出来ない」という状態ではないのが心地よかったのかもしれない。
今のところの生活の関心ごとは、やはり年齢を感じるものが多い。
老化防止のためなるべく運動する。
脂っこいものは控える、など家族の健康面に関することのウエイトが高くなっている。
ほんとはボケ防止のためにもうちょっと人と話した方がいいのかもしれないが、インターネットのツールも増えて以前より便利になった。
主人との会話はなぜか文字会話の方が伝わりやすく、あまり会話はしない。
新型コロナ流行のため、移動は車にしたほうが断然安心なのだろうが、もともと苦手な運転に慣れるのがおっくうでそれだけはどうしてもできないでいる。特に娘の送り迎えのように融通が利かないものは、体調が悪くても運転しなくてはならないので、そのこと自体に予期不安感じる。
最近漢字がぜんぜん書けなくなったのが気になっていて、この前漢検の問題集を買ってきたが、日々の日常生活に追われて放置されている。
去年の夏に取り組んだ部屋の片付けも放置されているのが気になるところだけど(今は押入れが空っぽでしまうはずのものは部屋に積まれている状態)片付いた部屋のイメージが出来ず、ものをしまう場所が決められないところでつっかかっている。
やはり歳をとったのか、健康が気になることが多いかな。慢性的な疲労感は相変わらずだけど、生まれて物心がついた時からこんなもんなので、私にとってはこれが普通の状態なんだが、これをさらに底上げしたような快適な生活が送れるようになるんだろうか?
何をやってもなんでこんなに虚弱なのかなあ?といつも情けなく思っている。
出来るものはできるが、できないものはできない。ただ、できないものを無理して努力し、できるようになるようになるまで頑張る年齢でもないような気がしている。ただ出来ることならエネルギーを消耗している最中に、パソコンのように電源をパタンとシャットダウンしてクールダウンできる機能がついていればいいのになと思う。
カモフラージュについては、自分が猫の皮をかぶって振る舞う発信面だけではなく、外界からの受信する刺激も受け流す機能がついているので、わたしにとっては自分本体にくっついている被り物(別物)感覚なのだけど、他人から見ると被り物まで含めて私自身として評価されているようなので、被り物を取り除いた自分自身について説明するのがとても難しい。普通ぽく振る舞えること†≠普通にできることではないのだけれど、普通にできないものを普通ぽく振る舞うために使うエネルギーは、自分の能力とのギャップが大きいほど振る舞っているウエイトが高くなるので消耗が激しい。結果的にできているように見えていても、消耗度合いはまちまちになる。この辺の感覚を他人に説明するのも難しい。なんとなくできているように見えてしまうので問題がないように思われてしまう。それが社会生活を送る上で得なのか、損しているのかは良くわからないし、改善の余地があるのか無いのかも良くわからない。