この前、学校の個人面談があり、娘が最初診断を受けた頃、お医者様から何と言われたか?を聞かれたので、
「むづかしいお子さんですと言われた」
と答えた。
正確には
「むづかしいお子さんだけど、ほんとは優秀なお子さんです」と当時の主治医には言われていた。
学校の先生は、
「むづかしいお子さんだと言われると、たいていのお母さんが諦めてしまう。でも眠っている能力があるので、それを少しでも引きださなくちゃ。ね。」と言っていた。どうもそれが、今娘が通っている学校が目指している「伸びる」ということなのかな?
でも、「諦めてしまった」というのはちょっと違うなあと思って頭の中を思い巡らす。
「むづかしいお子さんだけど、ほんとは優秀なお子さんです」
と言われた主治医にかかっていたころは、絵の表現が上手だったり、色彩感覚がすぐれていたり、記憶力が良かったり、と、ちょっとフシギな能力も含まれていたけど、それはそれで、親として娘のことをちょっとは誇りに思っていたし、「娘はこれだけのことが出来る。」という部分をちゃんと見ていた気がする。
でも、今の主治医に変わってから、
「いや~、このお子さんの相手は大変だと思いますよ。」
「中途半端に物がわかって中途半端に物がわからないので一番大変なタイプだと思います。」
「在宅で暮らしている中では一番生活が困難です。」
とことあるごとに言われるようになった。
そして、娘の出来る部分の話をすると、先生の表情が曇った。
それを見てもっと評価が低いんだと思った。
そうしているうちに、わたしは、娘の出来ない部分ばかりを見るようになってしまっていた。
「娘はこんなにいろんなことが困難なんだ」と。
そういう調子で話をしていれば、先生もにこにこしていた。
私は患者になったときも、あくまでも、優等生の患者を振舞う。
でも、顔ではにこにこ笑っていても、自分の子供に対して低い評価をされると、仮に真実だとしてもやっぱり気分はどんどん沈んで行く一方だった。
何かをひとりでやらせてみようかなと言えば、「ちょっと難しいかな」と言われ、こんなことをやってみようかなと言えば「こだわりになるからやめといたほうがいい」と言われ、すべて止められた。何でそんなに後ろ向きなんだろう?
そんなに娘は馬鹿なのか?
実際に娘は「まだやり方を教えてもらってないからひとりでできない。練習したい。」と時々言ってる。
そしてふっと気付いたら、わたしは娘に対する誇りをすっかり失っていた。
こんなことが出来るからがんばってみようよ、という前向きな姿勢からはすっかり遠のき、「こんなことが出来たよ」という喜びも感じなくなっていた。
一方で、わたしの診察の際は、どんなに困難を訴えても、
「上手に振舞って暮らしていらっしゃいますから」
の一言で済まされてしまった。
「出来て当たり前」
それ以上の弱音はそんなに悩むべきほどのことではないものとして簡単に片付けられてしまう。
そんなことが続いているうちに、私は自分にとって困難なことを主治医に訴えるのを次第に諦めるようになってしまった。
私の振舞う技術だって、もともと持って生まれたものではなく、それこそ物心ついたころから努力して努力して努力して身につけたものだ。
別に同情して欲しくはないが、せめてその努力くらいは認めて欲しい。
わたしにとって「普通ぽくできること」は「普通にできること」ではないんだから。
それにしてもなぜ、娘の評価がこんなに低く、わたしの評価が自分が思っているより高いのか?
娘のできる部分と、私のできない部分はなぜ排除されてしまうのか?
娘にも能力があることなんてすっかり忘れていたよ。
わたしが疲れてしまうのは娘のせい?
でもいっしょに暮らしている主人は私みたいに疲れてないし、病んでないよ。
もともと持ち合わせた能力の差と、本人がどの程度日常生活に対して苦痛に感じているかというのは、また別次元の話でしょ?
「出来て普通」という評価を与えられた今の私はすっかり疲れきってしまってしまい、娘に対してだけでなく、自分自身に対する自信も誇りもすっかり失ってしまった。
「こんなことができた」という喜びも感じなくなってしまっている。
友人と話していて、そんなことにふっと気付いた。